私がイギリス・ロンドンで夢中になっている食べ物がある。
それは「カァツゥ・キャアリィー」こと、カツカレーである。
イギリスでのカツカレーというメニューは、実に高貴なものだ。
インドカレーであれば、ロンドナーならばいつでも何処でも気軽に食べる事が出来る。しかし、日本のカレーと言うのはお気軽に食べれる場所があまり無い。
かと言って、自身で作ろうにも「日本の味」を出すカレールーの値段はそこそこの値段。スパイスで作った方が安いという事になると、それではインドカレーになってしまう。
その上、カツを乗せようともなると一大事である。こうなったら最初から外でカレーを食べた方が良い。
でも、日本を思い出させてくれるようなカレーが、外で食べることができるのであろうか。
しかし、ある時私は見つけてしまったのだ。
良心的なプライス、良心的なサービス、そして満足の味と三点揃ったカツカレーの店を。
本当にごくたまに立寄る程度だが、これが毎日通いたいほどに驚きの美味さなのである。
毎日通えない理由として、外食するお金は極力抑えなければならないというのが第一の理由ではあるが、その店の強気な経営時間体制にも実は深く関係している。
その辺の話しは、また後述にて。
私は職業上、仕事の時間が不規則なため、決まった時間に食事をする事があまりない。
自炊もするが、ロンドンで東西南北と移動して仕事をしているため、実働時間以外も、移動で一日中ばたばたとしている。
そのため、外食や軽食のお持ち帰り等はしょっちゅうではあるが、出先や、帰りがけに空いている店で適当に取る事がほとんどだ。
「お持ち帰り」の事をイギリスでは「Take away(テイクアウェイ)」と言う。Take out(テイクアウト)とは言わない。
時に、レジでのやり取りでは「To go」とシンプルに言う事も多い。
カレーの話しからは少し遠ざかるが、テイクアウェイ物で私が一番好きなのは、チャイニーズのテイクアウェイだ。
中華料理が好きなせいもあるが、夜が早いロンドン、24時過ぎの夜遅い時間に開いていて食事のお持ち帰りができる店は限られている。
チャイニーズ、ケバブ、フィッシュアンドチップス、とまあ、こんなところである。
仕事の時間が不規則な人間としては、上記の3種メニューには本当にお世話になっている。
基本的に自炊が好きではあるものの、壁の薄いフラットで早朝や夜遅くに料理をするのもあまり芳しくない。ロンドナーは意外と騒音等のマナーに気を使ってる人が多い。
そのため、少し時間帯を逃してしまうと、自炊も出来ない日が出てくるのだ。
さて、テイクアウェイ。
ケバブもフィッシュアンドチップスも好きだが、チャイニーズのテイクアウェイが特に好きである。
注文は簡単。
まず、ベースとしてヌードルかライスを選択し、その後メインである中華の味付けのおかずを選び、それらをお持ち帰り用の紙ボックスにどさっと詰めてくれる。
メインのおかずの選択肢は大抵六品程であり、それらのほとんどはチキンである。
多民族が集うロンドン、大衆的な持ち帰り店やチャイニーズテイクアウェイでは、牛や豚は滅多に使われていない。
酢豚であれば、「酢鶏」になる。
しかし、チキンもなかなか美味しいのだ。
こうして料理を詰めて頂いた紙ボックスを手に持ち、歩きながら、そして来たるバスに乗りながら食べるのが「粋」なのか、チャイニーズのテイクアウェイ・ボックスを手に「乍ら歩き」をしているロンドナーを結構見かける。
もちろん、フイッシュアンドチップスのチップスを頬張りながら歩く人も多い。
しかし、この辺は日本人でも難なくクリアーできる。ニューヨークでホットドッグを頬張りながら歩くそれに近い感覚なのではないかと思う。
それらは誰もが想定し得る食べ歩き事情であり、そしてそれを超えると「粋」の領域にたどり着くのだろう。
想定内ながら歩きは、現地の人間、旅行者、出張者そしてなりすまし現地民の全てが行う事が可能である。
しかし、中華麺を食らいながらロンドンのデッカバスに乗っている旅行者はまず居ない。
真のロンドナーとしての第一歩、それは、チャイニーズテイクアウェイ・ボックスを手にストリートに立つ事かもしれない。
他にも、粋の領域には「握り鮨のながら歩き」というものがある。
これは、純イギリス人が堂々と混雑した目抜き通りで行っているのをたまに見かけるが、なかなか粋だ。
しかし、握り鮨ゆえに日本人の私が、公共の場で「握り鮨の乍ら歩き」や「握り鮨の立ち食い」等をやると、少し間抜けになってしまう。
これは、乍ら歩き上級の「粋」ではなく、ロンドナーにのみ許された「粋」かもしれない。
そして、握り鮨に限らず、それら乍ら歩きという行為は、旅行客の日本人から見れば品のない行為となるので、注意も必要となるだろう。
仕事上、テイクアウェイ事情が増えてくると、時には日本食も持ち帰りたい。
同時に、ロンドンの日本食のテイクアウェイ専門店は当たり外れが多く、トライする気になれないのも本音だ。
そんな私が随分前から気になっていた日本食テイクアウェイの店がある。
18時〜20時くらいの時間に仕事を終える日があると、基本的には自炊の流れにはなるのだが、活気のある街の様子を見ると、外で食べて帰ろうと考えたり、深夜のストリートでは購入できそうにない料理を持ち帰ろうか等と考える時もある。
そんな帰り道に気になって覗く店が、その日本食の店なのだが、何故かその時間帯に立ち寄っても必ず閉まっている。
18時以降なんて、飲食店なら稼ぎどきなのに、何故だろう。
店の看板には確かに「Japanese Bento(弁当)」と書いてあるので、日本食には違いなく、ベントーと謳う限りは持ち帰りも出来る店なのだろう。店が潰れているような様子でもない。
飲食店にとって最も大事なディナーの時間帯に、なぜ営業していないのか、いささか不審にも思ってしまう。
ある日、店の看板に近づいてしっかりと概要を読んでみた。
なんと、営業時間は月曜から金曜の昼12時から夕方4時までということらしい。
店は、ロンドンの目抜き通りを一本入ったところに構えており、周りにはお洒落な雑貨屋やデザイナーズの路面店等もあって、ロケーションはなかなかのもの。
この立地に構え、この営業時間で商売が成り立つのか等と余計な心配が働く。
そこで、夕方4時頃に仕事を終える日ができるたび、その店の前を通ってみる事にした。確かに店は営業しているようだ。
恐る恐る店内を覗いてみると、狭い店内にはアジア風ルックスの従業員が一人だけキャッシュカウンターに立っている。
店内に置かれた数少ないテーブルにはいつも一人か二人、明らかに日本人ではないカスタマー達が、重箱風に仕立てたベントーボックスをチョップスティックでつついている。
店内を覗いた私は、さらにこの店の経営状態が心配になった。
そこで私は、思い切って店に入ってみる事にした。
「テイクアウェイ」ではなく、店にステイし、この店の謎を解くべく、店内の様子を観察してみたいと思ったのだ。
ある日の午後3時頃。
ランチにもディナーにも中途半端な時間ではあるが、その店の営業時間である12時〜16時という限られた時間内に仕事が終わったので、帰りがけに店に向かった。
しばらくウインドゥを覗き込んでいた私に、1人店内で仕事を頑張っていた女性従業員が「Hiya!」と、笑顔で声をかけてきた。
日本人にも見えるアジア風ルックスの従業員。中国人だった。
ここで少しホッとする私。日本人に英語でオーダーするのは恥ずかしい。しかし、日本人だと決めつけて日本語でオーダーするのも如何なものか。
事前に分かったので安心だ。この店は英語使用の日本食料理店ということだ。
私は、「初めて来店するのでメニューをゆっくり見せて下さい」とその店員に伝え、まずはメニューをじっくり拝見する事にした。
メニューはおおまかに何部門かに分かれているようだ。
ドンブリ部門、ヌードル部門、ベントー部門、そしてマテリアル部門があり、最後に「各種取り揃え」とあった。
まず、ドンブリ部門。
スイートサワーチキン、スパイシーチキン、テリヤキチキン、チキンカレー、チキンカツカレー、ベジタブルカレー、等。なるほど。
ヌードル部門。
チキンヌードル、シーフードヌードル、ベジタブルヌードル、等。スープはミソ風、醤油風、タイ風グリーンカレースープと選べるようだ。
マテリアル部門は、ミソスープ、キムチ、エダマメ、ワカメのサラダ等。
ベントー部門。
握り鮨の詰め合わせ他、どうやら、上記のメニューが重箱風のベントーに詰められているものを全てベントーと呼ぶらしい。
テイクアウェイしたい人であれば全て「ベントー」となり、店内でも「日本のお弁当の雰囲気」を楽しみたい人であれば、あえてベントー仕様で頼むようだ。
各種取り揃え、これはどうやら大きな意味はないらしい。
メニューはいろいろあるのだが、なんだか魅惑度の低い、日本で見慣れたメニューそのもの。
しかし、この店は、日本人経営の店ではなく、イギリス人経営の日本食のようだ。
少し、うーん、と悩んでしまった。
ロンドナーの発想ならではの、一風変わった感じの和メニューや、日本では食べられないような発想のもの、創作和食なら魅力があるので食べてみたいと思う。
しかし、日本らしい、日本の定番メニューしか置いていないならば、日本人経営の店に行った方が確実に美味しいに決まっている。
(やっぱり、注文せずに帰ろうかな)
そう思い、メニューから目を離した時の事であった。
白髪の背の高い、いかにも英国紳士風のおじさまが店に現われた。私の次に来店されたお客様のようである。
「Hiya!Take away or here?(持ち帰り?それともここで?)」
なかなか注文が決まらない私をスルーし、その素敵な紳士に向かって、女性従業員がそう尋ねた。
「ああ、テイクアウェイで頼むよ。ええと・・・チキン・カァツゥキャアリィー、プリーズ。」
流暢なブリティッシュアクセントでその男性はオーダーした。
(注文は、チキン・カツカレーか。なるほど、次回の参考にしよう。)
そう私が思った矢先、今度は若いビジネスマンが二人現われてレジカウンターに向かった。
そして彼らはメニューを眺めながら、
「ええと、そうだな、やっぱりチキン・カァツゥキャアリィーかな。」
「僕もチキン・カァツゥキャアリーで。」
なんと、紳士に続き、そのビジネスマン2人もカツカレーをオーダーしたのである。
呆然とレジカウンター近くで佇む私の頭の中に、(チキン・カァツゥキャアリィー)というワードが、ぐるぐると駆けめぐっている。
すると、今度は金髪のイタリアン・アクセントで喋るお姉さんが現われ、こう言った。
「Hiya!チキン・キャアツゥカァルィィイー、プリーズ!ライスじゃなく、ヌードルでお願いね!」
なんと。
皆がチキン・カァツゥキャアリィーを持ち帰って食べようと言う魂胆である。
しかも、最後のお姉さんは、カツカレーをヌードルで。
新しい。新しいけども、なぜか懐かしい。これは「カツカレー」というワードの魔力なのであろうか。
「ヘイ、あなた、注文は決まった?」
レジカウンター近くで佇む私に向かって、女性店員が再びオーダーを訊ねてきた。
「・・・チキン・カツキャァリィィー、プリーズ。」(私)
皆がテイクアウェイでオーダーする中、日本のカツカレーが招いたこの奇跡的な時間を見届けたいと思った私は、当初の予定通りに持ち帰りではなく、店内でカツカレーを頂くことにした。
「じゃあ、このナンバープレートを持って、その列に並んで番号を呼ぶまで待っていてね」
女性店員はそう言って私に番号札を渡した。
ステイ(店内飲食)でも、料理を運んでくれるわけではなく、完全セルフスタイルのようだ。
話題沸騰のチキンカレーを頼んだ私の後には、新たなお客さんが並んでいた。
ワクワクした顔でオーダーの順番を待っていたのは、インド帽を被った、インド系イギリス人男性だった。
その彼が頼んだメニューもやはり、チキンカツカレー。追加でライス大盛りを頼んでいた。
インド帽を被った方が和風カレーを注文する姿を見ると、なぜか恐縮してしまう。
そして彼は、オーダーが出来上がるのを待つ、チキンカツカレー注文済みの方々の列に続く私に続いて、行儀よく並んだのであった。
イギリス人は並ぶのが大好き。
こう言ったセルフ系の店等でオーダーした料理を待つ他、レジ付近やチケット売り場、パブやクラブでの入り口付近、エスカレーターやトイレなど、どんなシチュエーションでも奇麗に列を作って並ぶ。
勿論横入りは許されない。
そして、オーダーした料理が次々と出来上がっていく。
「Number 39!」
「Number 40 please!」
「・・・41!」
「Number・・・・42!」
先ほどから1人で注文をさばいていた店員さんが、今度はオーダーが出来上がった番号を威勢良く順に読み上げてた。
その速度は、待ち時間は変わりないほどに円滑であった。皆が「カツカレー」なので、出来上がりにも大差はなかったのであろう。
皆「カツカレー」なので、みんなに順番に渡せばいいじゃあないかとも思った。
まあ、ヌードルの人もいたけどさ。
さて、念願の噂のチキン・カァツゥキャアリィー。
一口食べて感動、驚きの美味さである。
この味ならば、日本の有名西洋料理店などで出されてもおかしくはない。
日本独特のカツをニッポンのカレーにどっしりと乗せた、カツカレー。
このカレーは、イギリスで最も身近な料理である、インドカレーのティカマサラ味に少しマンネリを感じていたイギリス人達を、ついに虜にしたのである。
日本のカレーが食べられる店は他にも沢山あり、味もそこそこ美味しいのだが、この店のカツカレーは「ここはイギリス?」と疑ってしまうほど美味しかった。
見事に日本の味そのものだったのだ。
そして私は気づいたのであった。
この店はチキン・カァツゥ・キャアリィーのテイクアウェイの売り上げが恐るべき利益を上げるため、一日4時間という強気な営業時間でも成り立っているのだ。
スシ、ミソスープ、エダマメ等に代表される日本料理流行りのイギリス。この和食ブームはまだまだ続きそうだ。
彼らは今後、更に肥えた日本の舌を持つことだろう。
1人カウンターを切り盛りする女性従業員の後ろには、ベントーが出てくる小窓があった。
あの壁の向こうでは、給食センターのような大きな鍋の中に入った4時間分の大量のカレーを、汗を垂らしながら絶えずかき混ぜている人が一人いるんだろう。ありがたい事だ。
改めて、日本の味を、ありがとう!
しかし、この一回限りの体験でこの店を過剰評価するのもどうかと思ったので、更に事実関係を調査するべく、私はまた別の日、しかも13時というイギリスのピークなランチタイムにこの店へ立ち寄る事にした。
日本では昼食の時間というのは大体11時半から13時ころまでが一般的である。
しかし、イギリスではまさにその時間帯の後、13時頃から14時半頃までが通常のランチタイムだ。12時半に飲食店に入っても余裕を持って席に着けるが、13時半頃となるとまさに戦場、椅子取りゲームの嵐となる。
そんなランチ時間の真っ只中に、私がその店で見た光景とは。
それは、狭っ苦しい店内に尋常ではない人の数、数、数。まさに鮨詰め状態、イギリスのビジネスマンによる長蛇の列であった。
そして、午後3時頃に訪れた時は1人の女性店員だったのが、ランチ時のレジカウンターはなんと三人体制になっている。
以前に対応してくれたアジア人の女性に、一見やる気のなさそうにも見えるギャル風メイクの白人姉さん2人が加わり、3人がありえないほどの手際のよい対応で、その長蛇の列のカスタマーを余裕の顔でさばいてたのだ。
そして、混雑する店内がスムーズに回転していき、新たな客も長く待つ事なくオーダーの順番をむかえている。
いよいよオーダーの順番となった私は、カツカレーを注文した直後(今回は、他のメニューを頼むべきでは?)と、スグに心変わりをしてしまい、慌ててメニュー訂正を願い出た。
しかし、この混雑時だ。鬱陶しいと思われるに違いない。
「ごめんなさい、やっぱりヌードルにしていいでしょうか?」
私は恐る恐る、ギャル風メイクの店員さんに訊ねた。
一度レジを打ってしまうと、その場の店員はレジの訂正のやり方や対処などが分からず冷や汗を垂らす事が多い。奥から「先輩」らしき人が慌てて出てきて、訂正処理を始める場合もある。
しかし、そこはさすがカツキャリィー長蛇の列を日々こなしているだけの事はある。慣れたものだ。
余裕で、「オウケイ!(ピピッ)」と、約三秒程で店員さんがレジ訂正完了。
そして、
「カツカレー以外のメニューも美味しいわよ!(メニュー変更は)ベストなアイデアね!」
そんなふうに、満面の笑みで私に語りかけた。
ロンドンの接客を舐めてはいけないと思った瞬間だった。
私が昔、飲食店でバイトをしていた時は、忙しい時間帯には大抵険しい顔をして、テンパって仕事をしていたものだ。
しかし、このカツカレー大繁盛の店のスタッフたちは、カツカレーが売れる数だけの笑顔を振りまいている。
この店は、カツカレー作りに命をかけているだけではない。
仕事でストレスを抱えたイギリス人達が、混雑するランチタイムに列を作って待つという更に抱える小さなストレスを回転率の早さで解消し、そして笑顔と共に美味しい料理を運んでくれるという、そんなパラダイスのような店なのだ。
イギリス人にとって、切っても切れない程深い仲の料理、それがカレー。
好きな料理のベスト5には常に入るであろう、カレー。
そんなイギリス人達が、慣れ親しんだインドカレーやイギリス生まれのティカマサラ味以外に、またひとつほっこりと暖かい味に出会えたのだ。
それが日本のカツカレーである。
我々日本人にとっても、一口食べるたびに浮かぶのは、子供の頃のあの風景、家族や友達との食事会の思い出や、恋人とのデートの時等、優しい記憶が蘇る料理、それがカレー。
カツカレーによって、また深く結ばれた日本とイギリスの食文化の絆。
今後もこの味がイギリス、そして全世界へと広がっていく事を願うと共に、日本以外で日本の懐かしい味が食べることのできる時代に感謝をしたいと思う。
さて、今晩は久々に、家でカレーでも作ろう。
カツカレー
明日が勝負と作る母
思い敗れし 次の夜も食う
ご一読ありがとうございました。